
■■ Serious? ■■ 1995年〜1996年悪性リンパ腫という病気で入院していました。そのころに思ったこと、振り返って思うことなどつれづれにつづっています。気分的なとりとめのないものですが、私にとっては大きな気づきを書きました。詳しい治療記録などは追って掲載します。
・病気になる前に考えておくとよい病気に対する考え方
・怖いということ
・医者の立場と医者の話の聞き方。治療を決めるために(01.10.07)
・家族も大変
・友人知人ができること
・病気が長引くとき
・考えのまとめ・大病をすると人が変わるということは?
・大病し、人が変わったように生きられる事は、ある真実を示している。
・「世の中には自分より大変な人がいる。自分は幸せである」という考え方って?(2001.09.28加筆)・「死を受け入れることができるのは幸せなことかもしれません。」
・これから見つめたいこと(2001.02.20)
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病気になる前に考えておくとよい病気に対する考え方 ↑back
今から、5年ほど前(1994年冬)のことですが、悪性リンパ腫になり、「あと、3〜6ヶ月の命です。」と医者から言われました。体中に転移、浸潤が進んでいる。と言われました。
このとき、骨髄移植を受ければかなり高い確率で、延命できると言われました。自分は、死ぬのが、怖かったので、希望を持って移植を受けようと思いました。
そのとき、自分の父親は、「移植を受けなくても、漢方薬で治る!」と言いました。自分は、漢方治療というのは、何かいかがわしく思っていたので、受ける気がしませんでした。
それでも、いろいろ話を聞くうちに、あることに気づきました。医学には、大きく、東洋医学と西洋医学がある。
自分は、どういう治療を受ければいいか相談すると、概ね次の3つの説明にわかれる。
1.東洋医学を支持する人は、西洋医学の欠点を説明する。
2.西洋医学を支持する人は、東洋医学の欠点を説明する。
3.どちらも支持する人は、両方のいいところを取り入れ、補完しようとする。(中にはいかがわしそうな人もいる)そうした多くの人たちの話を聞いて自分なりにどういう治療をすればいいか考えることになりました。そして、いろいろ聞いた話の信憑性について現実に何が起こっているのか、自分は知っていて、自分で納得のいく判断が出来るだろうか?と考えたとき、どのような治療をしていけばいいか本当に不安になりました。
厚生省の問題をはじめいろいろな噂が耳に入ります。うわさ話など気にしなければいいのですが、薬害エイズ問題などを知っている今は、「もしかしたら・・・」という疑いもでてきます。
自分の病気を治すために知らなければならないことが、山ほどあることに気づいたのでした。
幸い、こうしてわざわざこのページを読んで頂いている方は、インターネットが使えます。医療関係サイトはいくらでもあるし、調べようと思えば、いくらでも調べられます。(東洋医学、西洋医学など「患者のホンネ」というHPは、おすすめです。それで、「いろいろりんく」のなかへ紹介させていただきました。)
1999.11.03〜文化の日+2000.05.19補足及び内容一部変更 自分は、東洋医学、西洋医学どちらも大切と思います。☆お知らせ☆
いま、病気も良くなり、最近、思うところありネットで悪性リンパ腫について調べていたら、「悪性リンパ腫と戦う会」というサイトを知りました。MLや掲示板などでは、とても活発に投稿のやりとりがあり、わたしも病気の時知っていたらと思いました。また、そこで運営委員会やテキストづくり、単語帳づくりなどメンバーを募集しています。だれでも多くのかたが参加できるといいとおもいますので、すこしでも興味のある方は、ぜひ、出来る出来ないは関係なく、参加されてみたらどうでしょうか。2001.03.31
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怖いということ補足(00.12.23)↑back
病気になり治療を受けるために自分で治療方法を決めるとき、とても不安で怖いと思う。何も病気に限ったことではない。重要な決めごとは不安を伴うものだというのを思い出す。でも、いつも「自分の人生だ。後悔したくない!」そういう思いで決めている。それが全てだと思う。どうすれば自分を生きられるか?自分で決め納得した人生を歩くこと以上にすばらしい人生があるだろうか?ややもすると、恐怖心をあおる情報に、取り込まれてしまうこともある。恐怖心をあおることに弱気になる必要があるだろうか?ここの見極めはかならず自問し、客観視できることがどうしても必要であるとわたしは思っている。
補足:日本人は、特に慎重派のかたが多いそうです。私も慎重です。また、他の人から「いやだな」という思いをさせられる事に対して、とても弱気でした。そういう方ほど、恐怖心をあおる言葉や誘導にのりやすいかもしれません。また、「優等生的」人の良さも問題です。他人にいやな思いをさせまいと自分の考えを押し殺してしまう人も流されやすいので、注意した方がいいと思います。
医者の立場と医者の話の聞き方。治療を決めるために(01.10.07)。↑back
医者の判断の仕方というのも客観的に把握しておくのは大切だと思う。
医者の話の聞き方というのがあるからだ。正しく話を受け止めたい。私が入院中尋ねた。
「この治療で治りますか?わたしはどうなりますか?」
医者は答えた。
「今は効いているね。でも、この先のことはわからないよ。」
医者から「わからない」といわれると不安になった。
でも、ここから気づいたことは、
医者が、データを持っていることは「何%で治る場合がある。」とか、
「何%で危険である」という話ができるけど
なんのデーターもないことに対しては「わからない」としか
答えようがないということだった。決して無責任ではないと思う。
わからないということがわかっているということだ。医者の判断の仕方を具体的に実感してもらいたいので下記を読んで考えてみてください。
あなたが医者で、一刻の猶予もない病状の大切な友人を前にしているとする。
治療方法は2つある。
「こちらの治療はとても有効だといわれている。でも、実際の治検データがない。」
「こちらの治療は、今まで50%治っている人がいる。」
どちらの治療方法をあなたの友人に提案して勧めますか?
また、医者はどちらを選ぶとおもいますか?この場合、普通の医者は後者を選ぶと思う。
選び方の判断にはこうした心理的背景があると思う。どこの馬の骨かも分からない20才すぎの自分の嫌な今どきの男を
20才の娘が連れてきた。
「とてもいい人だ。結婚する。認めて」と。娘が、少々難があるが、まあそこそこ娘の幼なじみで自分も知っている男をつれてきた。悪いヤツじゃない。
「とてもいい人だ。結婚する。認めて」
1日で答えを出さなければいけない。かならず選ばないといけない。
どちらを選ぶだろうか?医者は、100%効くといわれても正式な手続きなしの
話など信用しないし、信用してはいけないし、その話を家族にする必要も
ないと思う。だから、本当の医者は、後者の治療方法を患者に
「治療方法は、これしかありません」と伝えるだろう。そして、医者が、病状なり今後の見通しなりを患者やその家族に説明するときは、
現実に起こりうる可能性を全て説明する義務がある。
その中にはリスクに関することも含まれている。
「手術中に死亡する場合もあります。かなり低い確率ですが・・・」という具合に。
聞いた方はショックである。頭の中にこの言葉がいっぱいに広がってしまう。
他の話も入ってこなくなるかもしれない。
「もし、この低い確率に当たってしまったらどうしよう!」
こうして、患者は、リスクというものを身をもって実感する。
このリスクにどう対処するか?判断は、性格も関係していると思う。
危険はなるべく避けたいという心理が働く人もいるだろうし
危険を冒さねければ良い結果は訪れないと考える人もいるだろう。
私は、ちゃっかりしているため、なるべく危険を冒さず良い結果を得る方法が
ないかと考えた。良い結果を最優先した。私は「あと、3〜6ヶ月の命です。」といわれた。
選択枝は2つ。1つは、移植を受ける。もう一つはこのまま化学療法を受ける。
医者はこうやってインフォームドコンセントを行った。
「移植をすれば、70%以上の確率で良くなる。でも、移植をしなければ、化学治療が持ってくれればいいのですがたぶん良くて12ヶ月の命です。化学療法のリスクの方が今後高くなっていくと考えています。」
この時点だけでは、わたしは、移植を受けるつもりでいた。
でも、「移植をすると子どもが出来なくなる」といわれた。
生死がかかっているからそんな話は度外視されそうだが
わたしは、何となくこのとき「どうやって生きていくかも自分で決めたい。」と思った。
それで私は、生きていくという前提でリスクを考えることにした。
生きていく前提で譲れないもののためにはリスクをおかそうと思った。
それで、化学療法を選び、漢方も飲んだ。
それが一番良い可能性を与えてくれると思った。私が治療を終えて死なずに戻ってきたとき
私の命はあと半年ですといって、漢方を飲むといったら「騙されている」といった主治医は「治ってしまえばなんでもいいよ」といった。
無責任かもしれないが、本当は医者はなおればなんだっていいと
思っている。でも、その時は、結果は分からない。
医者自身の立場でははわけのわからない賭けは、勧めることが出来ないと気づいた。
先のことはだれにもわからない。決められるのは、自分だけだ。医者の話を聞き違えるのは、医者が自分の身体の行方を全て把握できると
錯覚しているからではないかと思う。
医者はこれまでの治療から「こうするとよくなる人が多い。よくなる場合がある」という治療方法を提案して、点滴なり手術なりを行う人だ。病気を治すのは結局は自分で、その方法を選ぶ権利があるのも自分だけだ。
医者に任せるという選択枝があってももちろんいいと思う。でも、私は、
リスクに対して対処するにはどうしたら後悔しないか?と自問する以外に
納得いく答えは見つからないと思う。覚悟という感じだが、
覚悟を決める前に「どうしたら後悔しないか?」ということを徹底的に
考えるということだ。
家族も大変2000.10.29↑back
病気の人が家族や友人の中にいると、とても「きつい」。そして、病気が長引けば、それだけ心身共に疲れる。精神的には、病人以上のケアが、必要にもなってくる。家族に病人が出る確率はかなり高いが、家族が病気になったときに「どうするか?」考えることは少ないと思う。
家族は、知人はどうすればいいんだろうか?
「なんて声をかければいいのか?」「いつまで続くのか?」「どんな気持ちでいるのか?」「はげまそう!」・・・そうした心の声とともに家族や友人は現実と戦うことになる。すこしでも余裕が有れば、省みることもできるだろうが、まったなしで現実と向かい合わなければいけない。また、心構えは、日頃からあるものではない。それだけに、はじめてのことにとまどい、自分のことも相手のこともどうにもできなくて、もどかしい思いをする。それでも、現実は待ってくれない。
今すぐにでも自分の力でなんとかできれば!と、焦り、「自分は現実に対して何も出来ない」と、誰しも思うときがある。このことは知っておくべき事だろうと私は思う。何も出来ないことに対して、何もしないままでいるだろうか?たぶん、「何か」をすると思う。私の病気の時には、多くの人が「祈ってくれた」そのことを知らされたときはとても心強かった。この願いは、「・・なにもできない、祈ることしか・・!」という精神的苦痛を伴うかもしれない。それは、とても心苦しいものだったが、しかし、とても、心強く嬉しいものであった。「励まし」も病人に余裕がなければ、心がとざされ、届かないこともあるが間違いなく、何か影響を与えてくれる。また、時間と共にかならず、病人の心に届くと思う。けっして、病気以外のことで何もしてあげられないということはない。
病気以外のことは普通にいつもと同じであっていいと思う。病気の時、病気が人生の全てではない(仕事が出来ないとか、制限はあるものの)という気づきは、病人にとっても病気を持つ家族や友人にとっても大切なような気がする。
病気が長引くとき2000.12.19↑back
病気が長引くとき、それは、「生き地獄」とも言われる。病気が長引くと、現実にはもっと、厳しいものがでてくる。社会的つながりが疎遠になったり、収入がとぎれたり・・・。生きるための希望がどこにあるか?どこに気持ちを持ってくるといいのか?どうやって、生きていくか?何に気づけばいいのか?考えられるのか?抜け場所のない迷路に迷い込み、どこに希望があるのか簡単に見つけることが出来ない。これは、考えている(思っている)希望を実現するには条件があるからだ。健康であること、自由であること、社会的に認められること、収入があること、コミュニケーションが取れること、などなど、それらが奪われると、果たして自分の何に光を当てて、何とインタラクションすればいいのか?と嘆きたくなる。好きなこともできなくなる。ダイナミックな今までの自分の活動ができ無くなっていく。奪われていく。実現すらできない。そして、何も継続が出来ない。
私の場合は、やる気と無気力が交互に来た、それは何も変わらないもの「何の変化も感じられない」ものだった。
「人は何のために生きているのだろう?」そんなことも考えた。この無意味な時間はいつまで続くのだろう?などと考えたりもした。どうして、生きようとしてるのだろう?答えのない、きりのないものに思えた。いいことがあるから、わるいことがある。自由を知れば、不自由を知る。まるで老子のよう・・。でも、そうだろうなあと思った。いい思いをし、悪い思いがわかる。私が生きてることにたいしてのグチみたいなものなのかもしれない。わたしは、それぐらいしか考えられなかった。ただ、生きたいと思っていたので、どう生きるかなどどうでも良かったからだろう。楽しくなかったか?楽しいか?楽しいと思えるなら生きたいと思うだろうし・・・そして楽しみは、自分が気づいていないことにもたくさんあるのかもしれない。そう思いつつ模索していった。自分の考え方に執着はなくなった。変えなければうまくいかなかったとも言う。
そんな事しないでいい人が多いでしょう。でも「私の考えや言葉は本当に大したことないな!」と思えたのは幸せだった。それで、いまよりもっと気づかなければいけないものがあるだろうと想像したので、自分の感情から沸く言葉に惑わされてばかりではいなくなった。執着も消えた。怒ったり、いらいらしたり、そんな自分はたぶん大したこと無いからくだらないんじゃないだろうか・・・と、妙に納得できた。そういうこともあり、結局、「生きるって何?」なんて、考えるのもやめた。
病気の時には、楽しく過ごす努力が普段以上に必要なだけかもしれない。
そして、そこから学んだことは非常に貴重なことです・・・と思います(^^ゞ。時間を超えて・・
あるとき、大部屋の隣のおじさんがみている吉本新喜劇をみながら、大笑いした。そして、楽しいことはとても、大好きだと改めて思った。そして、やりたくなったことがたくさんある。とりあえず、書くことは出来たので、何でもかんでも書くことにした。それは、とても、たのしいものだった。それで、仕事でダイレクトメール用データーベースの住所の打ち込みはできるなあと思いやり始めた。また、ちょっとした資料作成なんかの雑用も「できるじゃん!」ということで、とりあえず、効率としてはあまり大したことではないが、ベットの上でも出来ることがあったので何とか過ごしてこれたかと思う。ベットでできるパソコンはとても、有り難いことであると思う。日記も何百、何千ページになったし、そうした継続はそれはそれで、自信にもなったし、病気が治った後もワープロが打てるのは、とても役だっている。雑用でも続けるもんだと思った。・・・とても、やりたくなったことだが、とにかく笑わすことである。というか、楽しくすることか・・・。これは、無性にやりたくてしかたがない・・・。希望がもてない状況で希望を見つけるのは大変なのだけど、情報がなくなることも同じように大変だろうと思う。
友人知人ができること↑back
上にも「はげますこと」を書いたのですが、その他にも、病気について徹底的に調べることが出来ます。治療方法など決める時に客観的なデーターは、患者にとってとても貴重でありがたいです。入院していて自分では調べられないことも多々あります。第3者の立場として冷静に情報を整理していく手助けは、友人知人にできることです。息詰まった場合、病気の情報は、いろいろな立場から、いろいろな角度から広く検討すべきだと自分は思います。民間療法にも目を向けるのはよくありますが、その際、患者や家族、友人の不安をあおる情報には十分注意が必要だと思います。情報源は、医学書、インターネットからも今はたくさん集めることが出来ます。
もちろん、これは、本人が望めばのことですが、患者を持つ家族に情報を伝えることは、家族にとっても、役立つと思います。
注意すべき事として、お仕着せにならないようにすることだと思います。たとえば、「同じ病気で、これを飲んだ人が良くなったんだ。だから、飲みなよ。」というのは、悪気がなくても控えるべきだと思います。あくまで客観的に情報としてということで話すべきだと思います。
私の場合は、多くの人が「これが絶対いいから!」ということで、いろんなものを勧めてくれました。私自身は、最初いかがわしく思ったのですが、「何が効くのか分からない」と考え直して、有り難く頂きました。藁をもつかむ思いもあったのですが、それにつけ込む人もいます。それらをうまく整理できることが、重要です。
おすすめリンク:メドックプロジェクトhttp://www.marrow.or.jp/medoc/海外情報の有益と思われるものを医師がボランティアで、翻訳しています。
考えのまとめ↑back
「病気やけがをしたら、病院にいって、治療を受ける。」これが、病気になる前、自分が当たり前に考えていたことです。
どうも、それだけでは心がけとして、たらない気がする今日この頃です。それはどういうことかというと、
「病気を治してもらう」・・・ということだけでは、病院に対して受動的で、すべて、お医者さんの言うとおりにするだけになる気がするのです。それがいけないと言うわけではありませんが、もしも、治療を受けても自分の「思っている」通りにならなかったら(病気が治らないということ)、そのときは、いろんな不満やもどかしさを感じると思うのです。受け身であるために、思うようにならない事に対してストレスもたまります。こうした気持ちになるのは、なるべくならさけたいことです。
自分は、どちらかというと、積極的の方が好きです。たとえば、病院に行くときの心構えとして初めて治療を受けるときでも「自分は、こうしたい!」という自分の考えを持つことが大切と思います。また、自分の「希望」をお医者さんに言えることは大切だと思います。それで、お医者さんが「それはできない」というかもしれません。あるいは、「じゃあ、がんばってみよう!」というかもしれません。病院や医者は自分で選ぶという心がけは、自分の病気やけがは自分で治すが、そのために医者に行くという主体性を持つことにもつながると思います。
病気になると、弱気になったり、自分の体そのものを信用できなくなり「希望」を失うことがあります。それは、生きることに自信を失うことでもあります。これは、精神的につらく、大変な状態ですが、それを乗り越えるのも自分です。生きる証として、自分の気持ち(希望を持ちたい!という叫び)を思い出して、そのために生きること(生きている今を生きること)も、大切な事だと思います。
わけの分からない文章を最後まで読んでいただきありがとうございます。 このページへのメールはhirakei@katch.ne.jpまでお願い致します。