「死を受け入れることができるのは幸せなことかもしれません。」↑back

 自分は背が低く、はげていますが、それは、成長期のころには受け入れられないときがありました。「そんなことを気にしてるのか!」と他の人から見れば、他愛のない物にみえます。本人が「そういうもの!」と別に気にならなくなったら、まったく、なんでもないことになります。本人にとっては切実な話しのなかには、こうしたことがあります。

 もちろん、自分はまだ、死についてよく考えられないのですが、背が低いとか、容姿をきにしててもあほらしいと思うのと同じように死についても考えられたら幸せだろうと思いました。
 つまりは、あるがままを受け止めることですが、これも、思想や信条に依るところかもしれませんが、自分の中で漠然としたままではなく、よく、咀嚼できると、「だから、今こうして生きてる」という自信が持てて幸せだろうなあと考えたりしました。

 また、私は、病気が治って、羨ましがられることも多々あります。比較されるとそういうものかもしれません。その心情はとても良く分かり、私自身も人をうらやむことはあります。

 単純に自分と他人を比べないところにもいいところはあり、当然のように死についても同様に考えられることが良いのかなと思えたのです。くらべて同じである必要はないというか、同じでいようとすることのが大変のような気がするのです。

 そうは言うものの・・・ということもあるのですが、他人と自分とは違うし、他人と比較しない自分で由しとできるところにも癒しはあります。同じ感情です。比較して同じである必要はないし、ありえないですよね。

PS(メモ書き付け足し00.08.04)

身近な者を失うと、希望が失せます。でも、希望を持った自分のためにまた生きていこうとされる方がたくさんいる事を知り、とても考えさせられることが多い今日この頃です。ただ、話をして、話を聞き、(それが有意義だと言う価値観はどうでも良く)自分の考えを押しつけあうわけでなく、そこには、自分の感情と戦いながら、もう一度、生きていこうとする意志が感じられました。絶望するひとでなければ、また、生きていこうとは思えないのかもしれません。とても、深く自分と向き合われる方が、こちらにいます。未来からの贈り物 Gifts Coming From The Future

大病をすると人が変わるということは?↑back

大病をすると人が変わったように前向きに楽しくいきていこうという方がいると聞いたことがあります。これは、別に大病しなくてもそうできる方がいいに決まっています。考えてみると、悟りの境地にはいきませんが、前向きに自分の生をいきていけるものだと思います。

 自然は、すごいという「自然に対する畏敬の念」というのは、考えればすぐにわかるし、自分なんかはすぐに畏敬の念を覚えました。

例えば、勉強するまでナチュラルキラー細胞やヘルパーT細胞というものを自分は、知らなかったのですが、自分がぼーっとしていても、細菌などの外敵が自分の体に入ってくるとちゃんと働き出すというのは、すごいことだと思います。医学知識の有無に関わらず、ちゃんとからだは、対策を考えている。そう意識すると「すごい!すげー!」としかおもえません!

 これは、自分の体が何万年、何十万年という積み重ねでできていると実感せざるを得ません。自分だけで、自分の体をつくったわけではないですね。

 自然はすごいです。そう思い始めると、自分の周りにある全てが、何らかの営みを続けている自然そのものだと思いました。いままでの生活は、すべて、自然を相手にしてきたことであり、これからも、自然を相手にしていく以外にないと考えるようになりました(自分は)。

 きりがないほど自然にはいろんな姿があり、時に絶望したりもしますが、「自分も、やっぱり、何万年もの積み重ねでできたすごい自然の一つには変わりないよなあ。」と思うと、「やっぱり、がんばろう!!」とおもいます。

 人間の脳は他の動物より大きいようですが、それも、いろんな事を自分の意識として認識したいという「やる気」の一つだろうと勝手に考えていますし、「捨てたもんじゃない」とも思います。

以下2000.10.05補足。

 入院中「てんぷらくいてぇ〜。カレーライス食いてぇ〜」と思い「健康って幸せ!」とおもうことはあったが、退院してそんなに幸せをかみしめながら生活をするように変わったとは思わない。

 前の生活と変わらないし、かえっていい加減になったとさえ感じる。

 また、自分の体はがんばればがんばるほどそれに答えてくれるものだと思っていたのが、逆に信用できなくなった。「あまり、がんばりすぎると、また、病気になるのでは?」そうした不安を抱える人は多い。病気に勝つ自分と、それに負けてしまう自分。思うようにいかないもどかしさの中でもがいている人も多い・・・。

 しかしながら、ふっと、思うことがあるのは、つまらないこだわりがなくなることである。食事はおいしい方がいいが、ただ食べられることに感謝するようにはなった。また、つらいこともそれはそういう問題だと考えるようになった。私自身がやらなければいけないのは、また、考えなければいけないのは、悩むことでなく、行動することだとわかった。今日という1日を生きることと、一生は、同じものであり、それがなんであれ、生きる必要がある。ノルマや規制の中で一杯一杯だった自分から適当になったのかもしれない。一日に何か自分で決めたことをやろう!と簡単に考えるようになった。

つまりは、気づいている人には当たり前のことをするようになっただけである。

病気になる前の自分こそ、もっとやるべきことがあった。今の自分がいつもこれからの自分のために準備されスタンバイされた状態だとおもうようにした。もっと、もっと、今以上に気づくことがたくさんあるはずだ!そう思うことで、気が楽になった。たぶん、この先も「これが完璧!」ということは、無いと思う。でも、現実の生活の中で報われないことの方が多い中であきらめるわけではない。「自分には今まで以上に気づかなければいけないことがある」と、何気なく思うことで多少の可能性を信じることが出来たのだろうと思う。わたしの感覚の問題であるから、この文章が役立つわけではないが、病気をしてそのような変化が起こる人は、多いのではないだろうか?なんらかのよりどころとなる価値観が欲しいと思うからかもしれないが。

 

大病し、人が変わったように生きられる事は、ある真実を示している↑back


 大病すると、とても具体的に人間の寿命は短い、人は死ぬものだとはっきり自覚する。そして、人が変わったように前向きに生きる。自覚しながらも決して、「こんなに短い人の一生で何が出来るか?」と絶望するわけではない。このことから、人はいろんなことができるという事実をあらわしていると思う。実際、いろんな事が出来る。満足も出来る。もちろん、人はそう思えるということである。そのために、悔いのない人生のため、当たり前にいつも自分で決めていたい。もっともっと当たり前に死と向き合えることも必要なのかもしれません。

 私の一番の変化は、毎年なぜか「ひまわり」を育てるようになったことで、義理の姉から、「そんなことするひとにみえない〜!」といわれたことである。

★思いこんでいることから変化するのは怖い部分もあるが、それはそれで希望がもてるときがあるので、それに対する心構えをいつでももってる自分でいるのは、おすすめできます。そんな感じは体感(補足:インタラクションについて)できるような気もしますが・・・どうでしょう?

補足。「私の人生なんて・・・」「こんな人生なんて・・・」そう思うことをダメだというつもりはない。誰が見ても大変で辛い思いをしている人はいる。それも本当のこと。楽しさで相殺できるはずもない思いもある・・・。それを理解してくれる人は、だれにとっても必要だろうと思います。
そして、「他の人を理解できることやしようとするありがたさ。」それはどこからきたのだろう?と疑問をもち、その訳を考えていくと、やはり、すごいことなんだろうと思います。

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「世の中には自分より大変な人がいる。自分は幸せである」という考え方って?補足2(2001.09.28加筆)

大病あるいは事故によって生死をさまよい生還した者が、前向きに生きるのは、不健康と比べて健康を幸せと思い前向きになるわけではない。

 「世の中には自分より大変な人がいる。自分は幸せである」という考え方は良くある考え方だし、「あなたより大変な人がいるのだから、がんばりなさい!」という励ましも良く耳にする。しかし、これらの考え方は、とてももろく崩れやすい考え方だと思う。

 「自分は自分のことを不幸だと感じているが、よくよく考えてみると、世の中には自分より不幸な人がいる。自分は幸せだ。」「あなたは、まだ不幸ではない」と、言っている。

 じゃあ、自分がその不幸だと思っている人と同じ立場になったら、本当の不幸になるということなのだろうか。

 幸、不幸を他人と比較するところから求めるのは、無理があるように思う。こうした考え方で「がんばろう!」とするとき、間違いなく、精神的にハイテンションとローテンションが、交互に現れると思う。わたしは、ここから抜け出すために、自分はどうありたいか、どういう時間を過ごしたいか?と自問した。

また、今のこの瞬間を「ああ、だめだ!もうおわりだ!」と思うことは誰もが出来るし、「これをどうすればいいか?」と考えることも誰もが出来る。

振り返ってみてほしいのですが、受験勉強の時などのことを。あるいは、後ろ向きでいた頃のことを「ああ、つまらない」ということを覚えていませんか?前向きでなく、後ろ向きなことが記憶されている・・・。その時考えていることが時間としてすぎていく。ダメだと思えば、そういう時間だけが過ぎていく。逆に楽しくしようと思えば、そういう時間が過ぎていく。そしてそういう記憶が残っていく。同じ時間、そのどちらを選んでいくか?と考えたとき、どちらを選ぶかはだれでも同じじゃないかと思う。私は、なるべく、嫌に思う時間より、楽しい時間が多い方がいいと思う。あたりまえなんですが。

 生死をさまよった人が、前向きになれるのは、たぶん、それだけのことだろうと思う。

2001.11.01加筆→日本というのは、自分のまわりに死というものがあまりにも遠くにあるのかもしれません。日頃、死というものを考えないようにしています。考えない方が楽なのですが、よりよく生きると言うとき、どうしても避けて通れないことの一つだと思います。

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これから見つめたいこと(2001.02.20)↑back

 今週は、かみさんと、子どもがしばらく実家に帰っている。いつもにぎやかな部屋がとても静かで、そんな部屋にいるといつか、自分が一人になるときがあり、それは、とても寂しいものだと思った。

そのとき、ふっと、気づいたことがあります・・・

移植を受けるか、どうか、どのような治療を受けるか決めるときの自分は、とても不安であった。それは、真っ暗な闇の中でどっちの方向に進んでいくのか決めなければいけない時に感じるだろう不安と同じものだった。コールタールをかぶったようにべっとりと死が、からだにへばりついでいるようだった。(実際かぶったことはありません。)

 最近我が子を見ながらずっと以前の自分を思い出す。自分が小さな頃は、今のような性格だったろうか?

 わたしはひとりでいたころの記憶が何となく残っている。ただ、あるがままを受け止め、ぼーっとしていた、でも、まわりの出来事がとても怖く、いろんな動きがとげとげしく感じた。たぶん、わたしは、何も知らない中で、他の生の存在を怯えていた(特に人に対して)。だからかもしれないが、自分から他人に何かしたいとも意識して思わなかった。

 でも、その人がが怖くなければ安心した。それで、いろんな気持ちがあることも知った。私自身は、そのように思いながら生きてきた。それは、私自身であって、私の生である。

 そして、気づくと、わたしは、最初何も不安なくうまれ、その後何かに怯えながら育ち、そして何かに怯えながら死んでいこうとした・・・。私の中にあるこの感情を受け止めることから、始まるような気がした。

 わたしは、生まれ、怯え、助けられ、喜びをしり、人の大切さやありがたさをしり、一人を寂しく思い、そして、死をさみしく思った。私が死を不安に思う理由はここにあったのだ!

 いまは、最初、一人でいた自分を寂しく思わなかった自分がいたことを思い出し、なんとなく、それをもう少し見つめてみたくなった。いつかひとりになる寂しさから開放されるためではなく、私自身を見極めるためと、私の生を見つめるためと、もっといろんなものを大切に出来るようにするため。だれにもある生の強さを大切にするため。(注:こう書くと決まった!ようですが、たぶん、こんなにとを言ってるうちはつまんないのです。)

夜中に、NHKを見ながら、そんなことを思った。

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「メモ帳と掲示板」/variety/↑back

わけの分からない文章を最後まで読んでいただきありがとうございます。

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